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インタビュー

大学で日本語を教えている同僚の布施倫英さんのコースワークの一環で、学生が日本人に日本語でインタビューをして、それを書き起こし、フィンランド語に翻訳するというプロジェクトに参加しました。以下は、布施さん同席のもと、Pia Aizawaさんが行ったインタビューの内容に私が加筆修正を行ったものです。せっかくなので、記念にそのまま載せます。

自己紹介をお願いできますか。

長津十(みちる)と申します。ヘルシンキ大学の実践哲学科で教えています。フィンランドに来て10年ぐらいです。

いつどのような目的でフィンランドに来られましたか。

2013年にたまたまポストクの仕事があったので来ました。 

最近の一日はどんなことをされていますか。

現在育児休暇中ですが、先週までは半日ぐらい仕事もしていました。仕事をしていない時は子供と一緒にいて遊んだりしています。子供が寝ている時を見計らって、カフェに行って、本を読んだりもしています。子供の世話は妻と半々で行っています。それとクライミングもやっています。週に1~2回はKumpulaとTapanilaで友達と一緒に登っています。

お子様は今おいくつですか。

上の子供が14歳、真ん中が12歳と一番下が1歳です。

仕事についてですが、フィンランドに来られる前にはどのようなお仕事をされていましたか。

大学を出た時に就職し損ねて、大学院に行きました。大学院卒業後には出版社でバイトをしたりシンクタンクで調査研究員として働いていました。その後はイギリスに留学しました。

イギリスで大学院を出た時が研究ではないことをやる最後のチャンスでしたが、結局そのままイギリスの大学の博士課程に上がりました。その時点から(就職の可能性として)研究以外はなくなった気がします。

最初のポスドクはイギリスですぐに決まりました。1年間やってから掛け持ちで非常勤をエストニアでやりました。たまたまフィンランドの仕事がみつかったので、それでフィンランドに来ました。

研究あるいは研究者になりたいという目的はありませんでしたか。

研究したいと思っていた時は、研究者になりたいというよりは、この勉強がもうちょっとやりたいという気持ちでした。さらに年を取るにつれ、ほかの選択肢がなくなり研究が残りました。

今後はどのような研究をされたいですか。今特に気になっていることはありますか。

難しいですね。育休中で、考える時間があると色々考えなくてもいいことも考えてしまいます。2023年夏からは任期なし(vakituinen)となるので、その後の研究の方向性を考えています。今まではテニュアを取るという目的があったのですが、それを達成した後は数値目標がある訳ではないのでかえって迷ってしまいます。

研究内容についても、科学哲学、社会科学の哲学をずっとやってきたが、何をやっても10年ぐらいやっているともう少し新しい話はないかと感じるようになります。けれども、全く新しい分野をやるにはもう遅すぎます。面白いと思って分野の人の本も読みます。最近は人類学が好きです。特に、経済人類学です。ただ科学哲学に引きつけて話を展開しようとすると難しいので、自分の研究に直接役立つかはわかりません。

最初に日本で勉強されたことと、その後イギリスで勉強されたことは違いましたか。

日本では法律を専攻しました。法律を勉強したいわけではなかったが、父親が文学部には行かせないと言ったので、仕方なく法学部に入りました。法学部にいる間に文転(3年生の進路選択の時に違う学部に移る)する可能性もありましたが、そこまではっきりした進路もなかったので、法学部に上がって、法科大学院まで行きました。でもその過程でやはり法律や政治学はあんまり自分と合ってない感じがあって、別なことを研究したくなりました。

日本で院から分野を変えようとするのはかなり難しいです。哲学に入ろうとしても第二外国語(ドイツ語やフランス語)をやらなければならないし、かなり敷居が高い。

学部からやり直す(学士入学といって3年生から2年間で学士を取る)など色んな方法もあったが、そこまではしたくないと思った時に、イギリスで一年間の社会科学の哲学の修士プログラムを見つけました。今までやってき分野も無駄にはならないし、調度キャリアチェンジのいい機会になりました。一年間で進路が変わりました。それ以降は、特に最近サステイナビリティとか政策とかをやっています。科学と社会の関係の話は昔やっていた法律や行政等の話に近いところもあります。

法律を勉強されたことは、今のお仕事と研究にどのような関係がありますか。又は、どのような影響を与えますか。

法律はそもそも全然科学的ではないという問題意識が私の原点です。理論や説はあるが、どうやってどれが正しいかを決める方法自体があまりはっきりしていません。この疑問があって、2001年前後に科学的な方法はないかと考え始めました。その時期にちょうど法と経済学(Law and economics)が流行っていました。ハーバード帰りの先生が、法律だけではダメだと、Rational choice theoryを使って、法制度の仕組みを科学的に解明できると言っていました。

僕も経済のミクロマクロに関する入門(コース)を取りましたが、あまり数学は得意ではないので、経済学の研究はできないと感じました。それよりも、本当に合理的選択論で社会制度を説明することが科学的なのかという問題に興味が湧き、自然と社会科学の方法論、もしくは社会科学の哲学に流れていきました。

普通に文学部に行って哲学をやっていたら、WittgensteinをやろうとかNietzscheをやりますとか、私はフランス哲学ですとか、そういう感じの哲学をやっていたかもしれません。その前に社会科学と法律をやったことで、やれる哲学の方向性が決まってしまいました。Wittgenstein等は好きだったのですけど、注釈や、Wittgensteinに触発された独自の哲学は既に日本に沢山あったので、社会科学の哲学をやってみようという流れになりました。ですから、かなりpath-dependentです。もし文学部に行っていたら、哲学ではなく、普通の文学をやっていたかもしれません。

法律と哲学の関係ですが、理屈をこねる、こねくり回す点では同じで、脳の使っている場所は同じかもしれません。実際アメリカでは学部で哲学を勉強して、その後にGREでいい点を取って法科大学院に行く人も多いようです。

僕の場合は逆で、実学をやって、つまらなかったので哲学に移ったけど、法律をやっていた時の筋(脳)トレが少しは役に立っているのではないかと思います。逆に読まなければいけない文献を読んでいないので、アリストテレスとか、Humeとか全部読んでいないので、そういう意味では哲学をやっていたほうがもちろんよかったです。

記事を読もうとしましたが、私にはとても難しかったです。

基本的にとてもマニアックな学問です。イギリスの修士過程の時の先生が、社会科学の哲学というのは大人の哲学ですと言っていたのが印象に残っています。学部からやろうと思っても、社会科学を勉強していないので、社会科学の哲学のやりようがないだろうと。一回社会科学と法律をやって、そこでちょっと立ち止まって哲学的に考えてみるとなった時にやる学問なので、そもそも一般の人にはとっつきにくい感じではないでしょうか。

難しかったということでしたが、一般的に英語圏の分析哲学というのは全般的につまらないと思います。もっと人生の意味とか、人間が実際どう生きてきたのかとか、そういう話をしている方が面白いと思います。だから、もっと人類学とかの方が一般の人が読んで面白いと思います。アカデミックな哲学は方法が確立していて、とても狭いところでやっているので、一般の人に受け入れられることはまずないのではないでしょうか。一般の読者が科学哲学を読むとすれば、きっとThomas Kuhn止まりでしょう。その後はもうすごく専門的になっていきます。インテリといわれる人もその後の科学哲学をフォローすることは多分ないだろうなと思うし、それはまったく仕方ないと思います。自分でも時々こんなことやって何になるのだという感じがなくはないですから。

儲かるというような話ではありませんね

儲かりませんが、私は大学で働いている、要は公務員のようなサラリーマンなので、フリーランスの人とかと違って、本を売ろうとしなくてもいいというのがあります。けれども学術界というQuasiマーケットにおける流行り廃りというのはあります。「今、サステイナビリティだ」とか、「今AIだ」とか。そういうのを常にフォローして外部資金を取ってくるみたいな感じです。そういう意味では、セーフティネットとして大学の給料を頂きながらのフリーランスみたいなものかもしれません。

非常勤は安定的な仕事ではなかったので、ストレスとかはありませんでしたか。

あったのですが、そのうちストレス耐性ができるというか、適応します。私の場合は、ショック療法として、日本の大学院を修了した後にいわゆる「普通の就職」をしなかったという点も重要です。

経済学におけるいわゆるシグナリング理論によれば、学歴というのは要するに、情報が非対称な場合(つまり雇用主には学生の質が分からないが、学生には分かっている場合)において、学生が雇ってくれる人に対して「私は真面目で勤勉で、命令にも逆らいませんよ」という信頼できるシグナルを送るための仕組みなわけです。だから実際日本の企業は学生が何を勉強したかよりどこの大学に行ったかを重視します。さらに、日本の文脈では、大学院に行くということは「俺は必要以上に勉強したい、物事に拘るちょっと変わった面倒くさいやつですよ」というシグナルになります。それよりもっと悪いシグナルは、いわゆる新卒で就職(学部や院に在籍中に就職先を決め、卒業と同時に就職すること)しないことです。社会の大多数がこれが正規だと考える路線から外れることは、企業側から見れば、その学生はそれに失敗したか、そういう規範に価値を置かないか、もしくは両方を意味します。私の場合その理論どおりの展開になりました。大学院に行くと目に見えて自分の労働市場における価値が下がったのがわかりました。更に就職先を決めずに勢いで修士論文を提出して卒業したのでいわゆるいい就職先を見つけることは難しくなりました。それまで、少なくとも傍目には順調に良い高校、いい大学、と進んで来ていたので、ショックでした。いきなりBob Dylan の歌うa rolling stoneとして社会に放り出された気がしました。

しかし、その後留学し、しかもLSE(London School of Economics)というそこそこのエリート大学に入り直したので、やり直しみたいな感じにはなりましたが。その過程で不安定な状態や、日本の外にある多様な価値観に徐々に慣れていきました。結局、自分と似たような人に囲まれているとこれが普通だ、と思うようになります。

最初のポスドクが終わって、妻が仕事をしていたタリンに戻りしばらく2人目の育児を手伝ったり、非常勤を掛け持ちしたりしました。妻は仕事があったので、僕は主夫でもいいかと思っていたのですが、その後2年のポストクが決まって、フィンランドに来ました。こっちに来た時に妻にパーマネントの国家公務員の仕事を辞めてもらったので、リスクといえばリスクでした。

でも妻の場合は辞めても、キャリアがあるのでいつでも再就職ができます。僕の場合は世界中どこでもいいので大学で職を見つけるしかない、みたいな感じでした。ですからメンタル的にきつい時期もあったけれども、ポスドクが2年更新された後に、運良く5年のAcademy Fellowshipを取れ、その間にこれも運良くテニュア・トラック(tenure track)のapulaisi professoriになりました。

ポスドク、フェロー、テニュアトラック、そのどれかが取れてなかった可能性もあるので、運が良かったんだと思います。40歳くらいまでちゃんとした職がなかったような感じです。

不安定といえばそうですが、日本においてすらいわゆる終身雇用を享受できている人は、昔も今もマイノリティな訳です。終身雇用ということに拘るのは、朝日新聞とか、NHKとかに就職した人がばらまいた言説に縛られているだけかもしれません。

東大とか、そういう環境にいない人から見たらばかけた話に見えるかもしれません。一寸先は闇というのが普通の人生です。中小企業は潰れたら終わりです。世の中の大多数という意味でそれが「普通」なんですが、やはりいい子で育ってきて、「勉強ができる」「周りが褒める、おだてる」「いい大学に行く」のような循環の中で育ってきたので、それから抜け出すのは難しいと思います。最近東大の院の同窓で、今年の4月から教授になる友達と面白い話をしました。彼はいまだに、大学に落ちる夢とか、大学で単位を落とす夢とかを見るって言っていました。実は僕も同じです。夢にどれほどの意味があるかは分かりませんが、もう40歳超えているのに、まだ18歳や20歳の時のエピソードが繰り返し夢に出てくるということは、ある意味脅迫的な環境で育って、そこのサバイバーなのかなとも思います。偉そうなこと言っても、結局そういう生い立ち、価値観から抜け出せないというのはあるのではないかと思います。

長い答えですけど、不安定なのは、大変は大変ですが長年かけてこのように言語化しつつ慣れてきたということです。

イギリスとエストニアとフィンランドで仕事をされた経験はあるとよくわかりましたが、逆に日本で仕事の経験はございますか。

日本では小さい雑誌の出版社でアルバイトをしたり、科学政策系のシンクタンクで研究員として少しだけ働いたことがあります。

いろんな国の仕事のやり方の違い、あるいは似ているところはありますか。

日本ではちゃんとした企業に就職していないので、僕の経験からは、やたらに労働時間が長いということぐらいしか分かりません。終電近くまで働いて、その後同僚と飲みに行くというようなことを短期間やりました。ストレスが溜まりますし、確実に太りました。

ヨーロッパの方が基本的に楽です。イギリス、フィンランドとエストニアの区別はそんなにしていませんが、もちろん違いはあると思います。例えばエストニアでは研究者の給料は安いですしポストも少ないです。

イギリスとエストニアとフィンランドで仕事されていて、どの言語を使われていますか。

言葉はずっと英語です。エストニアに居るときもそんなにエストニア語ができなかったので、英語でいいという話になっていました。エストニアの方がフィンランドよりさらに、国が小さいので、例えばタルト大学の哲学科の修士は全部英語やっている筈です。このように切り替えたのが数年前で、結構な決断だと思います。

フィンランドにそれがやれるかと言ったらきっとやれないと思います。そう考えると、フィンランドの方が逆にフィンランド語、スウェーデン語とかにこだわりはあると思います。逆にエストニアほど小さかったり、オランダのように高等教育を商売にしている場合は、英語に変えやすいのかもしれません。イギリスは英語なので一番楽です。すべて英語なのでパブに行って喋ったりするのもそうです。現地の労働者にお前の英語は本を読んでいるみたいだと指摘されたことはありますが。

エストニア語とフィンランド語は勉強されたことはありますか。

エストニア語はいい先生に巡り会え、それなりに勉強しました。最初の子供ができた時に、エストニア語をもうちょっとやろうと思ったら、子供が日本語を喋らなくなったので、よくないと思ってブロックして、家では日本語しか喋らないと決めました。それも言い訳ですけど。

最近は食卓での簡単な会話ならエストニア語で出来ます。エストニア語は家族の共通言語なので、僕もやった方が良いですけど、もう少し出来そうになってきたところでフィンランドに引っ越してきてしまいました。そこで止まってしまいました。子供向けの映画がわかる程度です。

フィンランド語はずっとコースを少し取っていたし、今でも続けています。学内の雑務に必要なのですが、ものになっているかというと怪しいと思います。昔、2007年ぐらいに博士で一学期フィンランド来ていた時に住んでいた寮で、ロシア人の学生が飲め飲めと言って一緒にサウナに入ってビール飲んだんですけど、その人達に「フィンランド何年いるの」と聞いたら、「もう7年」、「フィンランド語しゃべれるの」と聞いたら、「いや、全然」と答えたので、ロシア人はなんて傲慢な奴らなんだろうと思いました。7年も住んでいて、それはないだろうと思ったのですけど、今自分がそうなっているので、当時のロシア人に申し訳ないと思っています。

ご家庭では何語を使われていますか。

妻とは主に英語で子供とは日本語です。

お子さんは日本語学校に通われていますか。

補習校というのがあって、週末にずっと行かせていますが、日本語はそんな上手ではないにしても、なんとなく出来ます。でも妻は日本語をそんなにできないので、家族で話す場合は僕が言えるエストニア語又は英語でやります。多言語でやるのは面倒くさいですけど、子供も英語でわかることはわかりますが、積極的に参加して喋ったりはあまりしないです。子供同士だとフィンランド語が一番楽みたいです。

今育児休暇とおっしゃいましたが、日本でも育児休暇の権利が法廷で定められていますが、あんまり普及していないようです。これはどうしてだと思われますか

真面目に答えると長くなるので省略しますが、法律ではなくて社会の構成員が他人の行動をどう予期し、何を期待するかという社会規範の問題だと思います。2023年2月現在においても、法律が存在しないにも関わらず殆どの日本人はマスクをして外を歩いています。

(今14%ですが、過去2年間では7%も上がった様です。

僕は日本の職場でバイトしかしたことないので、職場カルチャーが分かりません。聞きかじり的な話で言うとやはり出世競争に響くことも理由の1つでしょう。女の人にやってもらうこともそうです。そもそも僕の友達はエリートサラリーマンが多いので、奥さんが専業主婦ということが多いです。それですと育休という話にはならないのではないでしょうか。逆にうちの兄貴は普通の共働きです。地方の共働きでダブルインカムの人や公務員でしたら状況がまた違うのかも知れません。

気候変動も気にかけていらっしゃると聞いていますが、一般的の人は何に気を付ければよろしいでしょうか。アドバイスを頂けますか。

僕も別にアドバイスする立場にもないので、難しいですね。学生にも気候危機でメンタルをやられている子が多いと聞いています。問題は「何をしたらいいか」「将来が不安」と思っていても、自分で何も変えられないことです。

労働時間を減らすのは第一歩的なことではないでしょうか。一般には、「エコな服を買いましょう」と言うようなconscious consumptionが称揚されていました。しかし所得が一定だとそれを消費に回すか、貯蓄に回すかだけの違いしかありません。消費を減らしたとしても、その分貯蓄に回るので、貯蓄に回ると銀行がどこかに貸し出します。銀行が利息を付けてどこかに貸すということは、その分野が儲からないといけません。そこで人に何かを売ろうとするわけです。だから、自分が何かを買い控えても他の人が違う何かを買うことを前提としています。一時期流行ったFIRE、Financial Independence, Retire Earlyというアメリカ初のムーブメントも同じです。貯蓄でも投資でも、マクロで見ると様々な環境危機への対策にはなりえない気がします。しかし、所得水準が下がれば投資と消費の合計も下がります。投資というのは、将来のためのインベストメントとは言いますが、気候変動とか、生物多様性危機とかの文脈で言うと、将来への投資をすることによって将来の人間の生存基盤を破壊しているとも言えます。金融的な側面だけを見ていると「将来への備え」なのですが、生態学的に見ると「将来からの先取り、搾取」です。資源を消費し環境を破壊することで、老後の安心を得るという、倒錯した感じになっています。そういう大局を踏まえると、minimalistの生活がいいのでは、と言われています。消費だけではなく、収入も、したがって投資も減らす、将来に投資しないということが大事です。人類学者の小川さやかが『「その日暮らし」の人類学』で描いているように、世界にはグローバル資本主義に巻き込まれながらもその日その日を生きている人たちがいます。人類はそもそもそうだったのではないでしょうか。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』ではないですけど、禁欲して投資して、消費させてというサイクルが持続可能ではないことがわかったというのが、今の状態です。で、どういう生き方があるのかと聞かれた時に、「その日暮らし」があるのではないか、というのが今の感想です。ただそれを政策に翻訳するのは難しいです。だから、どの国の政府も「その日暮らしで生きていきましょう」とは言わないでしょう。老後を心配しないで、周りの人と助け合って、今を楽しく生きましょうと言えないでしょう。

(日本の政府も今2000万円の貯蓄がないと老後は大変ですと言っています。)

そうです。要するに共同体が崩壊したので、お金で将来を担保しようという話になります。昔は共同体が面倒を見ていたということで、別にお金を貯めなくてもよかった。ただそれが崩壊し家族も崩壊しつつある。個人が貯蓄しても、政府が年金等を運用しても、マクロ的には同じ構造です。

ミニマリスト的生き方として、週2日しか働かない、生活費も収入も10万円ぐらいで、あと5日は遊んで暮らすという可能性もあります。遊んで暮らすと言っても、そんなに消費はできないので、山に行って草を取ったり、散歩したり、空を見たりするらしいです(Henri Oohara, 『20代で隠居』)。要するに今の日本や世界の先進国では、昔の狩猟採集民族のように短時間労働(週20時間前後)で物質的には生きていける訳です。

しかし、それで人間が幸せになれるかというのは難しい問題です。何故かというと、そういう本がそれなりに売れているということは、普通の人が面白がって投げ銭をするくらいの珍しい生き方な訳で、mainstreamにはなりにくい。皆がそうすればいいのだけど、食っていけると言っても、一人でやってみても割を食う(社会的に惨めな思いをしがちである)という囚人のジレンマ状況なので、そこは政策とかが舵取って労働時間の短縮やワークシェア、ユニバーサルインカムなりやっていけばいいと思いますが、そこまで大局的に世の中を見ている指導者も居ないと思いますので、難しい。結局資本主義民主制は行くとこまで行って崩壊するしかないのかもしれません。

フィンランドの食事は、口に合いますか。フィンランドでは食べられない、恋しい食べ物や食事はありますか。

特にないです。やはりもう日本を出て20年近く海外生活だし、定期的に帰るので特にないです。中華系の店とかに行けばそれなりのものも買えます。20年前にフィンランドに来ていたら違っていたかも知れません。家でフィンランド風のラーティコなどは食べませんが、たまに子供たちの友達が家に来たときに日本っぽいもの出したりすると、口をつけないことがあります。そういう風によその子たちを通して、やはり私の家庭で食べているのは普通のフィンランド家庭のものとは違うのだ、というのはなんとなく察してはいます。

ただ、私の友達も国際結婚をしている人が多いので、みんなどこも似たような感じです。純フィンランド料理は、それこそヘルシンキから出てどこかPohjoiskarjalaの方にでも行ってホームステイしてみないと分からないのかもしれません。してみたい気もしないでもないですけど。全然知らないことが多いかも知れません。ちょっとずつ、フィンランド語の授業で、フィンランドではこういうものを食べますとか、クリスマスのご飯はこんな感じですみたいなのを習いますが、それぐらいですね。特に困ってはいません。

ありがとうございました。